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2015-01-23 23:13    ブロンコライユ
 昭和七年の正月、代々木練兵場に於ける陸軍始観兵式に、はじめて九一式戦闘機が国民の前に、峻一の前に、姿をあらわした。代々木上空には、今しも甲式四型と呼ばれるニューポール戦闘機、乙式一型と呼ばれるサルムソン偵察機、八七式重爆の編隊が翼をつらねていたのだが、そのとき最後尾にいた新鋭の上翼単葉の九一戦闘機三機が、急に爆音を高め、ほとんどキーンという金属音を立てて、見る間に全編隊を追い越したのだ。行進する軍隊の、天皇陛下の、全観衆の真上の空で、いかにもすばやく、頼もしく、きびきびと。見上げている峻一の胸は高鳴り、言いようのない感動が彼のひょろりとのびた五体をわななかせた。この瞬間、焼芋を買うときにはいつも真先に十銭を出し、自ら蔵王山と称して校庭で相撲をとるお人好しの中学生は、たしかに一人の愛国者に、単に飛行機という媒介物によるごくたわいもない愛国者に変じていた。  翌年の夏、東京で初の防空演習が行われた。箱根の別荘に行っていた峻一はそのためわざわざ青山の自宅へ戻ってき、暗い夜空に探照燈の光芒がゆらめくのを、遠くから八八式偵察機の爆音が近づいてくるのを、夜じゅう寝ないで全神経をふるわせて愉しみ、昂奮し、有頂天になっていた。ここに本当に敵機が、たとえばあのカーチスやグラマン——それはまだ複葉機であった——が現われたらどんなにか素敵なことであろう。彼は閑さえあると外国や日本の飛行機の写真に見入り、その姿を矢も楯も堪らず模写するようになっていた。現に高等学校の試験に落第したのちも毎日のように飛行機の絵を描き、徒らに弟の周二だけを感服させていたのは先に述べた通りである。  ——やがて峻一は浪人中の身でありながら、飛行機の絵を描くだけでは満足できなくなった。実物を、それも雑誌や新聞には発表されぬ新鋭機をどうしてもこの目で見たいという欲望に打勝てず、立川の飛行場に通いだした。ときには弟を連れてゆくこともあった。そして周二が驚いたことに、省線電車が立川に近づき、そこにある陸軍の飛行場を基地として間断なく発着する九三式重爆などの機影が遥かに小さく窓外に見えだすと、その兄は走っている電車の中で、進行ののろさに堪えかねたように足踏みを始めるのであった。だが、峻一はたいてい一人で行った。それは彼の人には告げられぬ秘密の愉しみではあるし、軍の機密を探るともいえる行為でもあるし、下手をするとスパイの嫌疑を受けないとも限らなかったからだ。それだけに彼の立川通いは、いっそう蠱惑的で、幻想的で、魂を魅するスリルをも蔵しているように思われた。飛行場の前の砂埃の道を彼はぶらぶらとなにげない体をよそおって歩いてゆく。周囲一面に爆音が満ち、しかし彼方ではなんの奇もない九二式戦闘機がプロペラを始動していた。そればかりか旧式な八八式偵察機までが未だにのどやかに置かれてあった。しかし峻一の専門家的な目は、すぐさまその機の変った点を見てとった。本来は木製のプロペラである筈のその機はたしかに金属プロペラをつけていた。日本陸軍もいろいろと試験をしているな、と彼はひそかに心をたかぶらせながら思った。それからあまり長時間飛行場の前に姿をさらすのも危険だと感じられたので、いったんずっと行きすぎ、廻り道をして戻ってきて、ずっと飛行場の横にひろくつづいている桑畠の間にもぐりこんだ。そうして懐中には小型カメラを隠して桑畠に身をひそめた彼の頭上を、よくいえばたけだけしい武士という感じの、わるくいえば鈍重な九三式重爆が、着陸体勢をつくり重苦しい轟音をひびかせて通りすぎた。この目で一目見たいと念じ、あってほしいと祈り、あわよくば写真をとりたいと願っていた未知の新鋭機は未だに姿を現わさなかった。桑の葉の間から望まれる広大な砂埃の立つ飛行場の涯に、大きな黒々とした格納庫がある。極秘の裡に研究を重ねられている試作機はきっとあの中に隠されているに相違ない。その堅く閉ざされた秘密の扉をあけて内部を覗きこむことができるとしたら、峻一はどんな犠牲、どんな損失をはらってもかまわぬような気がした。……  このように受験浪人として許しがたい生活を送った峻一が、その翌年、人々の予想に反し、慶応大学医学部の予科の試験に合格してしまったのは、まったくの僥倖といってよかった。人々は彼のことを讃めた。そこで峻一はさすがに痩せて長い頬をほころばし、どうしたわけか自分の手にはいった慶応の丸い制帽をかぶった。それは典型的な、人々が慶応ボーイという言葉から連想する映像とこのうえなくよく一致する姿といえた。浪人中はさすが気がとがめてもいたのだが、こうして首尾よく上級学校にはいってしまうと、もはやなんのはばかるところもなかった。峻一の立川通い、更に海軍の飛行機を見るための追浜通いはますます頻繁になった。彼は正々堂々と朝から学校をさぼった。そして電車の切符を買って、秘密の愉しみに胸をときめかして、陸海軍の飛行場に通い、ときには感激して、ときにはおそるおそる、終日、空を見あげて飽かなかった。  今は、次々と目を見はる新鋭機が彼の前に現われた。中島キ—8複座戦闘機、中島キ—11戦闘機などの試作機も——その名前は知らなかったが——峻一の目から遁れることはできなかった。後者は桑畠の間にひそんでいる峻一の眼前で、着陸体勢から失速し、凧のように電信柱にひっかかった。機はべつに炎上もせず大破もせず、峻一がスパイ嫌疑への恐怖も忘れて駈けつけてみると、怪我もしないらしかったテストパイロットが、折れかかった電信柱を辷りおりてくるところだった。それらの試作機はついに採用されることなく終ったが、やがて採用され、いつの間にか大量生産され、空軍の主力となってゆく機種も少なくなかった。そういうわが国の軍用機の変革を、峻一はつぶさにまざまざと情熱をこめて見、頭に刻みこみ、胸に畳み、そればかりかひそかに写真まで写した。陸軍の九四式偵察機、九五式戦闘機の二型、海軍では九五式艦上戦闘機、九六式艦戦、九六式陸攻、さらに年が移ってゆくに従ってはっと息をのむほどの新しい機種の数々を。  しかし、まだまだ安心はできなかった。油断はならなかった。いや、日本陸海軍の航空機は仮想敵国のアメリカ——大正の末期、排日移民法ができた当時と共に、この頃ほど多くの日米戦争に関する通俗読物が氾濫したことはなかった——のそれより明瞭に劣勢であるといえる。相手の艦戦グラマンはずっと以前から引込脚——翼にではなくふくらんだ胴体に——になっていた。艦爆カーチス・ヘルダイバーも引込脚であった。米陸軍のボーイングP26単座戦闘機はズボン脚であったが、その形態がいかにも獰猛で喧嘩をさせたら強そうで、峻一はため息が出るほど羨ましくて仕方がなかった。  そしていつの間にか、このお人好しの飛行機マニアは、愛国者を通りこして、ひとかどの、といっても吹けばとぶような軍国主義者と変じていた。かつて小学生の彼に八八艦隊の概念を吹きこんだ書生の熊五郎の言葉が残らずよみがえってきたし、『日米もし戦はば』という類いの本に彼もまた熱心に読みふけった。  峻一は立川から夕暮疲れきって、しかしすこぶる昂揚した精神をもって帰ってきて、すぐにその弟を呼び寄せることがあった。 「周二、ついに……」と、彼は感動のあまり言葉をとぎらせ、それから受験に合格したときよりも遥かにだらしなく相好を崩して言った。「ついに、日本にも低単の戦闘機が出現したぞ」  その事実はまだ一般国民が誰も知らないことにちがいなかった。彼が、この峻一が、まかり間違えば逮捕されるほどの危険を冒して、うまうまとその秘密を探ってきたのだ。  昭和十一年の一月、日本がロンドン軍縮会議を脱退し、翌年よりその建艦に於て無条約時代に突入することに決ったとき、峻一はあたかも自分が海軍大臣ででもあるかのような顔をして弟に話しかけた。 「いいか、なにしろ主力艦五・五・三という比率をおしつけられてきたのだぞ、日本は。日本は軍艦を造りだしたら絶対に負けない。むかし八八艦隊というものを造りだしたときには、アメリカが慌てて建艦をやめようと言ってきたわけなのだ。周二、無駄使いをしてはいかんぞ。これからは官吏から会社員から月給を差引いて、また八八艦隊を造らねばならない。そして飛行機も、飛行機もだ」  それから彼は、手ごわい敵にちがいないアメリカ海軍のカーチス・ヘルダイバーについて、それからその艦隊が得意とする輪型陣について、ひとしきり弟に講釈をしてきかせた。周二は崇拝する兄の言葉に顔を傾けて聞きいり、そして尋ねた。 「本当にアメリカと戦争になるかしら」 「いずれはな」と、その兄はほとんど愉しげに、自分からどうもなぜとなくわくわくしてしまって答えた。 「いつ、一体いつごろ始まるの?」 「そうさなあ」  と、峻一は無責任に、しかしとっさの霊感をひらめかして言った。