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2015-01-24 20:39    ルイヴィトンエピノエ
 そして、さいごに、つぎのような結論をくだしているが、これはいかにも高杉らしい。「伯夷叔斉《はくいしゆくせい》が西山にワラビをとってくらしたのも、陶淵明《とうえんめい》が東籬《とうり》(東のかき根)に菊づくりにふけったのも、これみな気ちがいざたである。しかるに、近頃の中国には、こういった気ちがいがいない。だからこそ、聖人の道が衰退するはずである。」  これで見ると、高杉の�気ちがい�というのは、強烈な主体性に基づいて行動することで、中国人はそれが欠けているというわけだ。  それより興味があるのは、日本人の中国観が、しばしば急角度にかわっていることである。徳川中期までの漢学全盛時代には、荻生徂徠《おぎうそらい》のような大学者までが、戦後、日本の芸能人のあいだでカタカナ名がハンランしたように、名前を中国ふうに改める(物狙徠と三字名にした)ほど、中国文化に心酔していたのが、「アヘン戦争」でだらしなく負けたということがわかってから、中国軽蔑時代が長くつづき、日清戦争で日本が予想外の大勝利をえて、この傾向がいっそう強められた。  ところが、ロシアの東亜侵略が露骨になってくるにつれて、さまざまな形で、日本と中国との接近運動が展開された。明治三十年には近衛文麿《このえふみまろ》の父|篤麿《あつまろ》によって、�日清同盟論�さえ提唱されるにいたった。篤麿はこの主張の裏づけとして、東京に「同文会」を創立し、日清の文化的、政治的交流に必要な人材の養成を計ったが、のちにこれが上海にうつって、大学令による大学「東亜同文書院」にまで発展した。  このほか、頭山満《とうやまみつる》らの「玄洋社」、内田良平らの「黒竜会」、幸徳秋水らの「東亜和親会」、石原|莞爾《かんじ》らの「東亜聯盟」など、思想的立場やねらいはちがっているが、アジア諸民族の運命共同体的な考えから発している点で相通じるものがある。そしていずれも、東京とともに上海をこの工作の基地としていたことにはかわりはなかった。  こういう形の日中接近運動が、日本の敗戦と中共政権の成立によって雲散霧消してしてしまったことはいうまでもない。その一方で、例の�アメリカ帝国主義を日中共同の敵�と見る「浅沼声明」のような立場に基づく新しい日中関係をうちたてようとする動きが、日本でも一時はたいへん有力であった。しかし、これまた中ソの対立が現実化してくるとともに、影がうすくなってきたことは争えない。  上海の日本人は、幕末に密出国して住みついたものがいくらかいたようであるが、明治十四、五年には、それが六十人くらいになっていた。それも、ほとんど商人であった。そのころ、東本願寺の別院ができて、これが在留日本人の冠婚葬祭の場であるとともに、その一室をつかって寺子屋式の教育がなされていた。  日清戦争後は、日本人の数が急にふえて約二千人になり、正式の日本人小学校もできた。大正四年に約一万人、昭和のはじめには二万人前後だったのが、上海事変の後には、たちまち、軍人、軍属を別にしても、八万人をこえた。外国租界でも日本語が通用し、郵便物も内地なみで、重要産業はほとんど日本人の手にうつり、紡績関係だけでも、「太平洋戦争」の直前には、九社三十工場に達した。�長崎県上海市�などといわれたのはそのころのことだ。長崎で乗船して、ひと眠りすれば、もう上海についていた。むろん、旅券や査証などというものは、ぜんぜんいらなかった。  いずれにしても、高杉らが行ったときの上海や中国のことを考えると、日本が同じような目にあわなかったのは、奇跡のような気がする。しかし、それだけの理由がなかったわけではない。マルコ・ポーロやコロンブスが期待していたように、貴金属その他の重要資源が日本にないことがあきらかになったことと、日本人の民族意識と抵抗力が強くて、これを攻略しても、犠牲の大きさに比して得るところ少なく、採算があわぬと見たからであろうが、当時の日本の支配層が清国の官僚ほど腐敗していなかったという事実も見のがせない。  [#小見出し]鋭い高杉の報告書 「千歳丸」は、七月五日上海を出航した。呉淞《ウースン》までは蒸汽船にひかれて進むのだが、その途中、中国の小舟が蒸汽船のおこす波にまきこまれて沈没した。これにのっていた中国人が、水のなかで浮いたり、沈んだりしていたが、やっと同船に救いあげられた。  水先案内の中国人が、日本人たちのそばにきてアヘンをのんだ。どういうふうにしてのむのかと見ていると、キセルの先にアヘンをつめて吸うのだが、目をとじ、口を開いて、いかにも気持ちがよさそうだったが、まもなく死んだようになった。しばらくして、目を開き、また吸おうとした。日本人のひとりが刀に手をかけて、どなりつけたので、恐れをなしてやめた。これについて日比野は、つぎのように書いている。 「余ひそかにきくに、水路の主人一月の利二百金余の由。しかるに貧苦の出。如何《いかん》となればアヘンの費莫大の由。ただ貧苦のみならず、朝に吃《きつ》すれば、夕に死するも恐れざる由。ああ、その害の大にして、生民を惑溺《わくでき》する、如何に甚だしきや」  また、こんなことも書いている。 「洋中へ出れば、水の貴き実に一滴千金なり。伝聞するに、海水の塩味を脱し、あるいは水晶をもって水をとるの術ある由。余いまだこれを知らず。航海に志あるもの、ひろく学び、つまびらかに問うて、その術を知るべきなり」  当時の日本人の知識欲が、いかにさかんであったかがわかる。